どこまで掘り下げて勉強すべきなのか問題

アクセルを踏めば車は進む。タップすればスマホは動く。それだけ知っていれば操作はできる。

けれども、いざ、アクセルペダルを作るとなると、なぜアクセルを踏めば車は進むのかが気になって仕方がない。知っておかなればいけない気がして仕方ない。足元の深いところまで知らないと最良のものが作れない気がして仕方ない。たとえ、作るのがハンドルカバーであっても気になってしまう。

そういうものだと割り切ってくださいと言われても、気になって仕方ない。知らないことがストレスになって仕方がない。

以前に、全てを把握したうえで最善の選択をしたくても、それは時間的にも知識的にも不可能と書いた。今回のどこまで勉強すべきか問題もそれと似たようなものなんだろう。

今、環境構築でWSL2を触っているが、仮想化とはなんなの?Linuxって?カーネルって?と次々に疑問が出てくる。が、先人が用意してくれた知識のおかげで、そういったことを知らなくても問題なくシステムは動いてしまう。

ただ、望んだ通りにシステムは動いているのに、やはりなぜそれが動いているのかが気になって仕方ない。けれど、気になる対象に拘りリソースを割けば、やるべきことが止まってしまう。どこかで割り切らないといけない。

ただ、何を基準に割り切ればいいのだろう。これ以上は知らなくても問題はないと、どうすれば確信できるのだろう。

答えは、残念ながら自分では判断できない。正確に判断できる知識があるなら、そもそも勉強の必要はない。教えてくれる人がいない限り、自分だけではどうしようもない。

困った。それでは、一人では解決しようがないじゃないか。そうなったときは、やはり、先人の知恵に頼ることになる。

遅延評価勉強法を取り入れよう。実際に自分が必要になったとき、必要になった部分を、全力で学べばいい。なんてシンプル。

現状に問題がないのであれば、必要以上に掘り下げない。それよりも、いますべき必要なことに時間を割くこと。問題が出てきて必要になったときにはじめて学ぶ。割り切ってこれを繰り返す。

ただ、なぜかしっくりこない。よし、めでたしめでたしとはならない。なぜか。それは致命傷が怖いからだ。そう怖いのは致命傷なのだ。致命傷は避けたい。けれど、何が致命傷になるかを判断できる能力も知識も自分にはない問題に結局いきつく。

となると、正体がわからない致命傷に怯えるよりも、どんな大きな問題が起きても大丈夫なように、備えをしっかりすること以外にできることはない。

ということで、結局、前回と同じ結論で終わり。信頼できる情報で学び、失敗しても元に戻せる備えをしておくこと。

さてさて、時間をかけて考えたにもかかわらず同じ結論しか出なかった事実をどう受け止めよう。無駄だったか? そうは思わない。同じ問題や課題が残ったとしても、漠然とした問題と、考えた末にどうしようもないと受け入れた問題では、受けるストレス度がまったく違う。どんな問題でも腹落ちすれば、気持ちは軽くなるものだ。

と、言い聞かせてお終い。

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